国登録有形文化財「旧南方家住宅(南方熊楠邸)」

国登録有形文化財「旧南方家住宅(南方熊楠邸)」

 

建物概要

主屋 木造二階建て一部平屋 寄棟造り瓦葺き (建築年不明:明治時代と推察される)

書斎 木造平屋建て 切妻造り瓦葺き(大正4年に熊楠が前住居にて新築、大正5年この地へ移築)

土蔵 土蔵造り二階建て 切妻造り瓦葺き (建築年不明:主屋よりも古い可能性)

井戸屋形 木造平屋建て 片流れ屋根 (建築年不明:主屋よりも古い可能性)

 

 

先月の顕彰館に引き続き、今月は同じ敷地内に建つ、南方熊楠が英国から帰国以降の過半を居住し、研究の拠点としていた南方熊楠邸の紹介です。熊楠は1916年(大正5年)から1941年(昭和16年)、74歳で亡くなるまで25年間ここで住み続けました。敷地面積は約400坪。庭を研究園とし、南方の名が冠された新種の粘菌「ミナカテラ・ロンギフィラ」が発見されたのも、この庭の柿の木からでした。

この邸宅は、元は田辺藩士の屋敷だった宅地を分筆したもので、前住者は渡辺和雄氏(陸軍中佐、のち黒江町長)であり、熊楠とは旧知の中であったそうです。敷地内には現在、主屋、井戸屋形、書斎、土蔵が残されています。熊楠の没後、長女の文枝さんがこの邸宅とともに書物や標本などを保全し、文江さん亡き後、その遺志で田辺市に寄贈されましたが、傷みの大きかった建物は、顕彰館の建設に合わせて2006年に熊楠存命時の姿に復原されました。そして主屋をはじめとする建物が、田辺地方における早期の洋風意匠が加味された住宅の例として価値が認められ、2015年(平成27年)3月26日、国の登録有形文化財となりました。

顕彰館の門を左に少しすすんで右を見ると、主屋の正面が見えてきます。焼き杉板、横板張りの外壁が総二階のように立ち上り、寄棟屋根は四周とも出桁による半間の軒が廻され、その外観はどこかすっきりとした、現代的な印象を与えてくれます。外壁の張り方や、玄関戸が斜板張りの両開き戸であることなどが、この地方の伝統的民家とは異なった、洋風意匠を併せ持つ特徴であるそうです。玄関前から移動し南側から主屋を眺めます。縁側を通して、和室8帖、6帖の続き間があり、さらに向こう側の縁側から奥の庭が見えます。小ぢんまりとしつつも、とても風通しのよさそうな空間です。また建物の四隅には、丸太の独立柱(材質は「もろんど」という木)が建てられているのが特徴的で、それはおそらく熊楠発案で地震や強風対策として設けられたようです。

主屋の西側には書斎と土蔵が建ちます。土蔵は外壁が焼杉の縦板張り。現在は熊楠の採集道具などが展示されていますが、存命中は1階が書庫、2階が物置として使用されていました。

書斎は熊楠が、この場所に引っ越す前に住んでいた筋向いの借家に建てたものを、こちらへ来る際に移築した建物だそうです。8帖1室に東西両側の縁側を配し、開口は大きく開け放たれ、庭の緑に溶けあった書斎空間です。現在は熊楠存命中の様子を復元展示していますが、やはり目を引くのは脚を切って天板を斜めにし、顕微鏡をのぞきやすいように工夫した熊楠愛用の机です。

熊楠をあらわすキーワードは数えきれないほどあります。博覧強記、植物学、民俗学、神社合祀反対運動、エコロジーの提唱、南方マンダラ…。熊楠は世界的権威を誇る科学雑誌「ネイチャー」の論文掲載数が現在でも最多であるなど、在野の学者でありながら、当代きっての知の巨人でした。今もってその業績や研究の全貌が見えないほど、多くの研究を行っていたと言われています。

また庭には名前に字が入っていることからこよなく愛した楠の木、6月に淡い紫色の花をつけるセンダンの木など、存命当時からの樹木も多く残されています。宇宙のような広がりを持った南方熊楠の頭脳とそれを支えた「環境」を垣間見に、南方熊楠邸と顕彰館をぜひとも訪れてみてください。

【会報誌きのくにR5年9月号掲載】

情報・出版委員会 南方一晃

このページの上部へ