重要文化財 旧中筋家住宅

重要文化財 旧中筋家住宅

03門長屋

門長屋

01旧中筋家住宅

旧中筋家住宅

[概要]
所在地 和歌山市禰宜
完成年 主屋・長屋蔵:嘉永5(1852)
    長屋門:主屋より古い
    北蔵:江戸末
    内蔵:明治19
施工者 不明
構造 主屋木造3階望楼 桟瓦・本瓦葺

[沿革]

 中筋家の歴史は、天正13(1585)豊臣秀吉が根来寺を攻めた際、敗れた文貞坊が河内の国からこの地に逃れ、和佐の庄に住みつき、秀吉の目を逃れるため僧となって世をしのんだことが始まりという。その後、浅野幸長の時代に中筋家を名のり、江戸時代に入ってからはこの地方の地士として勢力を持つようになった。正徳2年(1712)中筋彦四朗良重が18歳で湯橋家に代わって大庄屋になり、その後明治2(1865)まで実に157年の間6代に渡って和佐・西和佐・四ヶ郷地区一帯を管轄した大庄屋をつとめた。

 現在の主屋を建てた8代良秘は、紀州藩のお抱え絵師野際白雪に絵を学び、芸術・文化に造詣深く、10代良恭のときに現在の屋敷構えが整ったという。昭和49年に主屋などが重要文化財に指定された。

04門長屋から南庭主屋を見る

門長屋から南庭主屋を見る

 敷地は南北56m、東西38mの広い敷地で、東側が熊野古道に面している。嘉永5年(1852)建築(鬼瓦の銘から明らかに)の主屋は、3階の望楼、二十畳敷の大広間などの広い接客空間が特色で紀ノ川流域を代表する大型民家である。

南にある表門の門長屋は長大で30mにおよぶ。入母屋造り平屋建てで大戸は総欅づくりである。門の東側は大庄屋の職務をつかさどった役所として使われ、主屋の南庭にも面し、落ち着いた執務空間になっている。門を挟んで西側は使用人の部屋であり、更に奥が米蔵であった。

 門を入ると、壮大な主屋の姿が現れる。入母屋屋根の式台を構えた大玄関、左に小玄関を設け、なまこ壁と黒漆喰の壁、屋根は二層に重ね、下段は桟瓦、上段は本瓦葺きで解体修理に於いて旧瓦が再使用された。土間の上部にあたる棟に大型の煙出し櫓が載っている。

 小玄関側から入ると広い土間で、中央に一列5口のカマドが設けられている。壁は解体修理に於いても経年のまま残され長年使われてきた様子が感じられる。上部を見上げると大きな梁と煙出しから入る光が壁面を照らしている。土間の南には女中部屋があり、東の座敷は台所で北は縁と中庭に面している。一方小玄関側に回り、大玄関、中の間、表座敷に続き、南に縁側があり、さらに一段下がりの縁には低い欄干が設けられいる。ここに広がる南庭には周囲を青石で組み上げた池と青石の橋、松、蘇鉄、椿などの木々が門長屋を背景に見事な景観をつくっている。表座敷の北は木地の間で当主の居間となっている。さらに仏間・納戸・廊下が続いている。

 旧中筋家住宅で襖の青い唐紙文様に特色がある。これらの文様は紀州藩と縁の深い江戸期の住宅で見ることができる。復元された文様共に、東三畳、五畳の間に以前の襖が残されている。二十畳敷の大広間は奥に床の間と書院を設け、床脇が設け、北側の広縁とともに開放的な空間は心地が良い。広縁を進むと西に便所と風呂が設けられている。

建物の中央の階段を登ると、2階は踊り場を挟んで三畳納戸と収納や屋根裏収納などが合理的に設けられている。更に階段を登ると3階の望山楼に至る。北に床を構え、東西が開放された建物特色である。東に高積山を望む素晴らしい景色が広がる。

 通りに面して西側に建つのが、長屋蔵である。南面入母屋、北面切妻造り二階建て本瓦葺きの長い蔵である。1番から5番までの蔵部分の他、土間の部屋や通用口からなっている。

 北蔵は、切妻造り本瓦葺2階建の土蔵で、北西に建ち米蔵として使われた。他に家財を収納した内蔵や北側の御成門、味噌部屋、人力車庫、茶室などがある。

【会報誌きのくにH24年12月号掲載】

副会長 中西重裕

 

GoogleMapのストリートビューで室内も見ることが出来ます。   GoogleMapで見る 

このページの上部へ