がんこ六三園

がんこ六三園

  「建築の仕事をしていくなら、ぜひ見ておきなさい」社会人になった頃、先輩に勧められた建物である「がんこ六三園」。当時はまだ「六三園」という料亭で、見学を勧められたものの、なかなか訪れる機会がありませんでした。2005年「がんこ六三園」になってからは、幾度か食事に訪れる機会も生まれました。いつも老若男女問わず、大勢の方が庭を眺めながらの食事を楽しむ場所、という印象です。

DSC04559和歌山市堀止西の2,000坪という広大な敷地に、昭和3年頃に建築されたこの建物は、大正から昭和初期に株の相場師として活躍した松井伊助の別邸です。橋本の学文路出身の松井氏は「相場は世間の人さまに喜ばれながら儲けるもんや。嫌われて儲けたらあかん」と和歌山の米穀仲買問屋だった父に教えられ、13歳で大阪に奉公に出た後、相場師として巨万の富を築きました。米暴騰時には悪党に敢然と戦いを挑み、莫大な損失を抱えるも正義の味方として庶民から称賛を浴び後世に名を残した人物です。松井氏の63歳の祝いに完工したといわれる六三園は、戦後米軍に接収されマッカーサーが指揮をとる指令本部としても使用された時期もありました。その後、和歌山銀行のオーナーだった尾藤家の屋敷となり、一部で「六三園」という料亭が営まれていました。

道路に面した入口から長いアプローチを通り、表門が現れます。門をくぐり左側には、大阪の堺筋の難波橋と同じと言われるライオン像が一頭有ります。正面の玄関では足下に大きな青石の靴脱ぎ石、天井を見上げると屋久杉を使った舟底天井が目に入ります。料理をいただける部屋は、座敷(1階・2階)や応接間に、蔵(2棟)も有り、各部屋に「加太」や「勝浦」という風に和歌山の地名が付けられています。黒蔵と白蔵の2つの蔵はかつての六三園の頃は倉庫であったが、現在は重厚な扉はそのまま、構造材を現した部屋となっています。新館への通路を通る際に垣間見える姿がとても雰囲気があるので、以前から印象に残っていました。布張りの壁に長押が廻り釘隠しが付き、同じ模様の刺繍を施した布が格天井の鏡板と腰板に張られた和洋折衷の応接間は、大理石の暖炉に銅製の鏡、照明器具など調度品にもこだわりが見えます。座敷は北に個室、個室の上部に位置する2階、南にこの屋敷で一番格が高いといわれる2間続きの座敷、とそれぞれの雰囲気を持った部屋が有ります。庭園の景色を楽しめるよう、室内から庭を眺めた時に視界に入る部分に壁を配置しないなどの配慮がされているようです。廊下は、手漉きガラスを透して差し込む光がゆらゆらと煌めいて、長い距離を飽きさせません。

多くのお客様が食後に散策して帰られるという庭園には、四季の花や樹木と苔に覆われた築山を映す庭池、日本各地から集められた名石、24基の石灯籠などが見事に配置され素朴な茶室も建っています。多くの石が四国から船で運ばれてきたというが、決して容易いことではなかっただろうと感じます。

築年数の割に痛みは少なく状態が良いなと感じましたが、やはり80年を超えた建物、雨漏り等に悩まされることもあるそうです。古い屋敷、広大な敷地となると維持管理は容易くない事は想像がつきますが、本来の建物、庭園の姿を生かし、その空間を多くの方が楽しめるようにしていただいたことを、有り難く思います。

DSC04584 DSC04600松井伊助はこの建物が建って約5年、68歳で亡くなりました。造園や建築のこだわりが大きい屋敷であることを考えると、もう少し長い時間、ここで過ごしてほしかったなと思います。一般庶民にお米を提供しようと活躍した「北濱の今太閤」の思いを持って、一般の多くの方に屋敷の素晴らしさを伝えながら、親しまれ、愛されるお店として今後とも存在していただきたいと思います。

【会報誌きのくにH24年4月号掲載】

情報・出版委員会 三木早也佳

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