三溪園 臨春閣

三溪園 臨春閣

ー紀州徳川家の別邸巌出御殿の遺構ー

三渓園平面・立面(「三渓園の建築と原三渓」西和夫著 有隣新書)三渓園を代表する重要文化財「臨春閣」が巌出御殿を移築したものであると推測され、江戸時代初期数寄屋風書院の名作で西の桂離宮と並び称される。横浜市の本牧海岸に沿った広さ約5万8千坪の敷地の大庭園が三渓園である。三つの渓谷にまたがった自然を組み入れた個人の庭園を、明治39年5月1日から一部一般に公開している。この庭園を作ったのが原富太郎こと原三渓で号が「三渓」であった。庭園内には二十棟以上の建物があり、重要文化財が十棟ある。多くの建物が旧地での存続が難しくなったものをここに引きとり蘇らせものである。しかしながらもともとこの場所に相応しく建てたものと感じるものばかりで、すばらしい景観美を造っている。

内苑の御門から臨春閣への導入路に入ると右手には原三渓が住いとした「白雲邸」を見ながら正面に「臨春閣」の第一屋に至る玄関が見える。玄関前から外を回り込んで歩むと第二屋の座敷を望むことができる。続く縁側は、第一屋、第二屋、第三屋が雁行型に配置され、開放された縁側が池に張り出す形で伸びている第二屋と第三屋とを低い廊下で接続している。内部は狩野派を中心とする障壁画と数寄屋風書院造りの意匠、波の彫刻のある欄間や和歌を書いた色紙のはめ込み欄間、さらに第三屋では笛と笙の楽器をあしらった欄間もある。第三屋は二階建てである。二階は三面が開放され、まわりの山々と一体化した造りは感動的である。

原富太郎は岐阜市に生まれた。明治24年原屋寿と結婚し原家に入籍。その後原家の家業を継ぎ、財界人として活躍した。三溪園の大きな特色の一つは優れた建物を次々に移築したことと、自らの自邸の庭の一部外苑部分を公開したこととである。

巌出御殿そばの川辺で遊ぶ幼い頃の吉宗(中央)。左で騎乗するのが父・光貞巌出御殿は、紀州徳川家初代藩主頼宣が夏の別荘として岩出に建築、吉宗が幼少期に過ごした場所とも言われている。宝暦4年(1764)泉佐野の飯野左太夫に与えられ、大阪春日出新田の八洲軒と呼ばれる建物であった。その後清海氏の所有となり明治38年頃に購入、三溪園の地で大正4年から6年にかけて建築された。

この建物を原三渓は聚楽第の一部と考え秀吉ゆかりのものと信じていた。大阪では瓦葺であったものを杮葺きに葺き替え、原三渓の細かな指示によって池を配置し、建物を数寄屋風に改変している。建築について知識を持っていなかったが、優美で荘厳な古建築を、古美術を愛するのと同じように大切にし、見事に移築再現している。

⑤御殿山跡戦災の空襲で傷んだ建物を戦後昭和30年から33年にかけて臨春閣の工事監督を務め、報告書をまとめたのが藤岡道夫氏である。藤岡氏が第二屋の柱の位置が紀ノ川に張り出し、岩盤などの地形から巌出御殿の遺構であることを発表し、その後通説になっている(現在は河川改修により削られ確認できない)。一方「三渓園の建築と原三渓」有隣新書の著者西和夫氏によると、臨春閣はもと巌出御殿とされてきたが、最初から大阪春日出新田の会所八洲軒であったとの説を唱えている。

臨春閣の第二屋にあたる建物が紀の川に張り出し柱が岩盤に建ち、吉宗が滞在していることを想像するとさらにロマンが広がる。

【会報誌きのくにH29年12月号掲載】

                              副会長 中西重裕

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