西村伊作について

建築家 西村伊作 について

 

○はじめに

西村伊作修正 西村伊作の活動で最もよく知られているのは、大正10年、東京・駿河台に与謝野晶子らと共に「文化学院」を創立し、わが国最初期の自由主義教育を実践したことかもしれない。

 しかし彼は同じ頃、日本の住宅を主人の見栄や体面のためでなく、家族の団欒のためのものにすべきであると訴え、当時の人々から熱烈な支持を得、その結果、その主張である「リビングを中心とした住宅」が、我が国に誕生した。そして人々の求めに応じて設計を行い、全国各地に数多くの作品を残したのだった。

 教育と建築の両活動を同時に行うということは奇異に感ずる人も少なくないのではと思うが、彼には「日本人の生活近代化」という統一した視点があった。ここでは彼の建築活動について紹介しよう。

 

○明治の日本

 明治維新以後、西欧から新しい文物が流入し、我が国は大きく変貌を遂げていったが、あらゆるものが同時進行で変化していったわけではない。社会の表層は洋風化が進んだが、明治末にあっても一皮向くとまだまだ江戸の残渣というべき非近代的な部分が多く残されていた。

 住宅は、貴紳らが競って豪華な洋館を建築しようとしたが、それはあくまでも接客の場であって、家庭生活の場ではなかった。日常生活の場は、そこは封建的な家族制度のもと、それを反映し客を迎え入れる座敷や玄関は上質で広く日当たりのよう場所を占め、普段の生活の場、茶の間は重視されず家族のプライバシーも守られなかった。これが明治から大正前半期までの状況である。

 

○西村の思い

 このような中で子供の頃から西欧の生活文化に接し育った西村伊作は、今後の日本人の生活は封建的な権威主義から脱却し、洋風を中心とした実質本位のものに転換すべきであると考えていた。

 しかし、この転換は言うのは易いが容易なことではない。例えば、座敷を重視した接客中心の間取りから、居間を重視した家族生活を第一に考えるそれに転換するということは、祖父・主人・長男のみの尊重から、妻や女子も含めた家族平等への転換であり、それは住む人々の家族観・人間観の転換を必要とする。これは容易ではない。

 勿論このようなことは西村一人で頑張っても成し遂げられることではない。そこには時代の大きな流れというものがあった。大正デモクラシーの大きなうねりの中、心ある人々は今後の日本の新しいあり方、教育や住宅ほかあらゆる分野においてそのあり方を真剣に模索していた。そんな中、今後のあり方を著書で、新聞の連載論文でさらに講演で、明確に国民に示し、彼は時の寵児、今風に言えば大ブレイクしたのだった。

国民が強く支持するということは、それを受け入れる素地が既に出来上がっていたということであるが、彼が主張するまではそのことは誰も言い出しえなかった。家族観・人間観の転換は、国家のあり方にまでも及ぶ重大な問題を含み、国家を背負うことを義務づけられた帝大卒のエリート建築家は主張できなかったであろうことは容易に想像できる。

 

○なぜ西村が

img025 彼は特に専門教育を受けず自学自習で建築を学んだ。歴史的にはこのような建築家で大きな業績を残した人は少なからずいるが、しかし、現在とは比べることが出来ないほど交通不便な新宮の地にすむ西村が、時代をリードする主張を展開することが、なぜできたのか。その理由にはいくつか考えられるが、その一つは、彼は生活改善に熱心なプロテスタントの強い影響のもとで育ったことが先ずあげられる。また、彼は親代わりでもあった米国帰りの医師大石誠之助からも大きな影響を受け、欧米の生活改善の動きをよく把握していたこと。そして彼が養子となった奈良県南部の西村家は大山林家であって世間とのしがらみがない自由な立場にあったこと。そして、彼は資産家であっても人々のために役に立ちたい、今風に言えば強い社会貢献の意欲を持っていたのだった。

 このように彼の活動の背景には、紀伊半島が、交通不便な地ではあるが海外には開かれていたことや、豊かな森林資源をもつ地であったことがある。

 

img026○デビューまで

 彼の建築活動は、明治37年(20才)の時、新宮でわが国最初のアメリカンバンガローを建てたことに始まり、現在新宮に遺る西村記念館と呼ばれる自邸を建築したのは大正3年(30才)のこと。これらの建築を通じて経験を深めていった。

 最初に注目を集めたのが大正8年出版した著書『楽しき住家』である。そして与謝野寛の紹介を得て大阪毎日と東京日々新聞紙上で連載された「文化生活と住宅」でさらに大きな反響を呼び、全国各地から住宅設計の依頼を受けた。そのことが契機となって大正10年(37才)の時、自身の建築事務所を阪神間と東京に開設することとなった。

 

○西村の建築

 彼の建築作品には、基督教会や教育施設などもあるが大半は住宅である。

 彼の著書に『装飾の遠慮』と題したものがあり、彼の意匠は装飾を完全に否定はしないが最小限にというものである。屋根は天然スレート、外壁は子砂利混じりの漆喰を多用し、荒々しい野石積みの外壁なども見られる。様式建築からするとモダンであるが、素朴な風合いを好んだ。

 彼の平面形は、リビングにしろ茶の間にしろ家族が集うところを最も重要な部屋とし、そのほか個室を多用する。このような間取りの住宅は大正期ではきわめて先駆的である。

 当時の書籍や雑誌などを丹念に調べると彼の主張以降、あたかも堰を切ったように同様の主張が現れ、また、住宅の設計競技などに審査員として招かれたりする。そして、彼の主張するような住宅が住宅博覧会などで一挙に出現したのだった。それは大正11年頃のことである。

 

○その後

 昭和13年には国家総動員法が公布され、この頃から建築活動は大きく制限されるようになり、建築事務所は閉鎖を余儀なくされた。彼は住宅を中心におよそ百数十棟の建築作品を残し、昭和戦前で建築活動は終了した。しかし終戦後、彼の主張は結実しこの形式が広く普及することとなった。

 このような紀州人が明治17年に生まれ、昭和38年78才で生涯を閉じた。彼の建築に関わる活動はそう長いものではないが、しかしその業績はもっと評価されるべきと思う。

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