樫野埼灯台旧官舎

樫野埼灯台旧官舎-日本最初のモダニズム住宅?

樫野埼灯台旧官舎Data
 所在地  串本町樫野
 アクセス JR紀勢本線串本駅よりバス37分、タクシー20分
 駐車場  あり(無料)84台
 公開日  毎週土曜日・日曜日、祝祭日、灯台の日(11月1日)、12月29日~31日、1月3日
 入場料  12歳以上(小学生を除く)100円、12歳未満は無料

 串本町樫野埼灯台旧官舎改修工事は、20113月末に終了し、工事の記録をまとめた「樫野埼灯台旧官舎改修工事報告書」は今春完成した。

 官舎は、お雇い外国人として来日した英国人技師のリチャード・ヘンリー・ブラントンによって1870年に竣工した。官舎の竣工当時の姿を伝える図面や写真は残っておらず、今回の工事では当初の姿の究明を行った。

これまで、屋根仕上げ材、野地板、垂木が何度か架け替えられていたことが分かっていただけである。工事では、素屋根を架け腐朽していた屋根を分解し、小屋組の調査を行った。その結果、現在の寄棟の小屋組が、実は建設当初陸屋根で造られていたことが分かった。海側から約1.52°の水勾配の陸梁が切断された状態で残っており、切断された陸梁の一部は寄棟の小屋組の横架材と火打材の一部に転用されていた。また、室内の間仕切り壁の天端材も同じく勾配が確認できた。天井野縁の吊木もこの陸梁に付けられていたことから、小屋組を架けて、内部の間仕切り壁、天井などが施されていたことも分かった。

IMG_8519-2 陸屋根だった場合の軒部分の水仕舞はどのように行われていたのかを究明するために水下側の軒部分の痕跡調査を行った。すると、石壁上部の内側に内樋を付けた痕と考えられる切り込みが見つかった。さらに、内樋から外に雨水を流していた穴、切り込みからは鉛の一部が見つかった。これは、ブラントンが師匠のスティーブンソンから受け取った仕様書の「陸屋根で鉛葺き」と一致する。ブラントンは日本で最初期に手がけた樫野埼で、この仕様書に従って計画を行ったと考えられる。樫野埼より少し後に着工している同じ串本の潮岬灯台官舎の小屋組を調査したところ樫野埼のような痕跡は見られず、寄棟で造られたと考えられる。ブラントンは、樫野埼の現場で串本の気象の厳しさを知り、その後の計画で仕様書に変更を行った可能性が高い。
図1

 

官舎の石積みは、古座川水系の宇津木石が使われているが外壁面は風化していた。改修工事着手前は、大部分の石壁面が現しであったが、過去の写真を見ると海側は白く塗られていた。また、ブラントンが灯台前で写る当時の写真の灯台の海側をよく見てみると白く塗られていることが確認できた。これらの事実から、官舎も竣工当時は海側が白く塗られていたことが明らかとなり、今回の改修工事では海側を漆喰で白く塗ることとなった。当時、灯台と官舎の海側を白く塗っていたのは、灯台も嵩上げされるまでは官舎とあまり変わらない低い建物であり、海からの視認性を考えてのことだったと考えられる。

kashino001今回の工事では、屋根形状は陸屋根にはせずに寄棟のままで修理した。その理由は、ひとつは串本の過酷な気象条件に適合しなかった陸屋根に戻すことは再度漏水の可能性が考えられたことと、“カタチの再現”より“痕跡の温存”の修理方法を選択したからだ。痕跡を残し未完の修理とすることは将来における推理の可能性を残すことに繋がる。これは無責任なバトンリレーではなくて、次の時代へ継承していく文化財保存という新たな創造行為であると考える。

そこで竣工した樫野埼灯台旧官舎の姿を見て気づくことがある。海側からの南立面で、今は瓦葺きの寄棟屋根がのっているが、それを切り取って建物を見てみると、その姿はホワイトな箱である。それは20世紀に世界中で流行したモダニズム建築の様式に通じる姿である。ブラントンは仕様書に従って、陸屋根の屋根を架け、機能性を考えて海側の石壁は白く塗った。その結果できた住宅はまだ見ぬ世紀のモダニズム住宅の先駆けの姿だったように思われる。樫野埼以降の灯台官舎の多くは寄棟屋根で造られているため、その姿は樫野埼でしか見ることができなかった。

図2

【会報誌きのくにH24年11月号掲載】

吉永則夫(本多環境・建築設計事務所)

 

 

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