重要文化財 和歌浦天満宮

 前回、「匠明」を紹介するにあたり、改めて和歌浦天満宮を訪れた。和歌浦天満宮は延喜元年(901)に菅原道真公が太宰府へ赴く途中、風波を避けるため和歌浦に立ち寄られたのが縁で康保年間(964~968)に、文章博士(たちばなの)(なお)(もと)公の勧請により道真公が祀られるようになった。その後、江戸時代の始め慶長十一年(1606)紀州藩主の浅野幸長(よしなが)公が再興したのが現在の社殿で紀州根来出身の大工、塀内吉政、正信親子によって建てられた。父吉政は若干21歳の子正信に全てを任せ、わずか数年で完成したようである。

 急峻な階段の上に優雅な楼門がそびえている。「一間一戸楼門」という形式では国内最大である。軒は扇垂木で神社ではあるが禅宗様となっている。息を切らせ門をくぐる。突然の訪問にもかかわらず小板宮司が、にこやかに出迎えてくれた。函館出身で、東京の大学で神道を学び、その後、修行、ここ和歌浦天満宮に赴任して40年になるそうだ。博学多才な方で建築の知識も並外れていた。それもそのはず昭和51年の社殿、解体修理では、毎日つぶさに工事を観察されていたようである。境内を案内して頂きながら、桃や瓜の極彩色が蘇った社殿の彫刻も中国故事が題材で「李下(りか)(かんむり)(ただ)さず、瓜田(かでん)(くつ)()れず」などの説明を頂いた。五間大社造りの本殿裏手には他神社には見られない扉が背面に設けられている。岩山信仰ではない当神社には不思議なことであるが、諸説あり、宮司の私見では、戦乱の世だったので抜け道ではなかろうかとのことである。もちろん「匠明」はご存知で、出版元の鹿島出版より寄進されているとのこと。それから、当和歌浦天満宮が現存する唯一の塀内(へいのうち)家が携わった建物であり、「匠明」にも紹介されていることから毎年、文化庁の建築技術者、大学の研究者、全国から多くの建築関係者が参拝、見学に訪れるそうである。当然、合格祈願等の参拝者も多数あるのは言うまでもない。

楼門外観

楼門外観

 帰り掛けに社務所に上げて頂き当時の本殿修理工事報告書や宮司がかかわられた公共建築物の地鎮祭での祝詞集なるものを見せていただいた。また、最近引退された地元の大工さんに寄進されたという古ぼけた1冊の本を出して来られた。それは、見開きA2版ぐらいで30数ページ、表紙に墨書きで「隅矩雛形図解」と書かれている。開くと冒頭は勾配、曲尺(かねじゃく)の図があり規矩術書のようである。規矩術(きくじゅつ)とは意匠の木割とは違い木材の加工墨(線画)を描く作図方法である。曲尺(かねじゃく)差し(さし)(がね))の裏側は裏目と呼ばれ√2倍の目盛りが刻まれている。底辺(())縦((こう))斜辺((げん))裏目の組合せで隅木に取り付く配付垂木、茅負(かやおい)(とめ)加工墨等が、曲尺1本で簡単に描ける。振隅、扇垂木等も作図できる。中程から後は隅木、二軒、扇垂木等の詳細図が占める。最後のページをめくると著者の名前が目に飛び込んできた。“四天王寺流正統、「平内(へいのうち)大隅廷臣」”、なんと正信の子孫、平内家十代目なのである。「塀内正信」は江戸に下ってから名乗りを「平内」に改めている。徳川に気を使ったのではないかとの説もある。

正に和歌浦天満宮は平内家に馴染みの深い神社である。

 【会報誌きのくにH30年6月号掲載】

                         情報・出版委員 永田佳久

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