国宝 醍醐寺金堂

国宝 醍醐寺金堂

金堂正面醍醐寺の本堂にあたる金堂、実は安土桃山時代に紀州湯浅より移築されたものでした。なぜ湯浅にあったお堂が京都へ運ばれたのか、今回は和歌山と京都を結び、古くから現代にまたがる歴史を持つ、醍醐寺金堂について紹介いたします。

醍醐寺は京都伏見区にある真言宗の寺院で、笠取山の山上に位置する上醍醐と、その麓にある下醍醐によって成り立ち、西暦832年弘法大師の孫弟子にあたる理源大師聖宝(りげんだいししょうぼう)により、上醍醐に小さなお堂が建立されたのが始まりです。10世紀には醍醐・朱雀・村上天皇によって大伽藍が建立され200万坪におよぶ境内を有する大寺に発展しました。しかし室町時代の西暦1470年、多くの伽藍が兵火によって消失します(西暦951年完成の五重塔だけが消失を免れます)。

その後安土桃山時代、復興に力を注いだのが醍醐寺三宝院門跡の義演准后(ぎえんじゅごう)です。その義演准后に信頼を寄せ、支援したのが豊臣秀吉でした。義演が書き記した「義演准后日記」によると、秀吉は世に有名な「醍醐の花見」を催すにあたり、慶長3年(1598年)2月18日、金堂を始めとする伽藍の移築・修復を高野山の僧侶、木食応其(もくじきおうご)に受け持たせました。湯浅のお堂は4月4日には応其によって既に解体され、金堂に充てられることになっています。解体されたお堂は湯浅から船に乗せられ、海路から淀川、その上流の山科川を経て醍醐寺までたどり着きます。5月19日には仮柱が立てられますが、その数ヶ月後秀吉が亡くなり工事は中断します。しかしその子豊臣秀頼に引き継がれ慶長5年(1600年)5月3日工事が完了し、130年振りに醍醐寺の金堂が復興されました。

なぜ湯浅のお堂が選ばれたのかという疑問ですが、義演は大和や河内に建物を探す予定だったのが金堂にふさわしい建物が無く、紀州にゆかりのある応其が修復に携わったことによって湯浅にあったお堂が選ばれたのではないか、そして資料から読み取れる義演准后の人柄から、お堂が荒廃しているのを見かねて移築を決定したのではないか、と考えられるそうです。

雨の降る、清新な空気の境内を歩いて金堂を案内していただきました。歩みを進めるごとにその金堂の規模は並大抵ではないことが分かります。桁行7間(20.8m)、梁間5間(17.4m)の大きさ。そびえるような急勾配の入母屋屋根が参拝する人々を雨から守りながら、その場に姿を現します。湯浅においては平安時代末期(12世紀頃)に、現在よりも小さな規模で建てられたと推定されています。鎌倉時代後期(13世紀後半~14世紀前半)には現在の規模に改築され、慶長3年~5年(1598~1600年)の移築時に慶長期の技法が見られる入母屋の屋根形状に改修されています。その後何度かの改修を経て現在に至りますが、和様(わよう)と呼ばれる平安時代の建築様式は移築されても守られています。内部は柱間の広い1間を礼堂とし、その後方を内陣、さらに奥には本尊を置く須弥壇(しゅみだん)があります。これだけの規模の本堂で礼堂を1間とすることは珍しく、下津の長保寺本堂などでも見られる特徴との事です。

平成26年には湯浅町において、工事が完了した5月3日を移築記念日とする「醍醐寺金堂の移築記念日条例」が制定されたそうです。和歌山に住む私達も普段なかなか知ることのできない、地域の歴史を知る機会があることを嬉しく思いました。さて、この大きなお堂が湯浅のどこにあったのか、「義演准后日記」では「紀州湯浅ノ本宮(堂?)」とあるだけで具体的な場所は書かれていません。江戸末期の地誌「紀伊続風土記」では”満願寺”から移したもの、とされていますが、その満願寺の奥の院と伝承されているのが”勝楽寺”です。満願寺もしくは勝楽寺の周辺に建っていたという説が有力ですが、実際の場所は未だに分からないそうです。とはいえ湯浅にあった建物が京都醍醐寺に400年以上を経て今も建っていることに変わりありません。

しかし、取材の中で伺った言葉が心に残りました。「このお堂は多くの人の祈りが積み重なっているのです」と。湯浅にあった時代も、醍醐寺にある時代もです。醍醐寺は世界遺産に認定され世界各地から多くの人々が訪れます。日本中の、世界中の人々から祈りを受け続けています。それは移築された、というだけの建物ではありません。数百年以上続く人々の目に見えない想いが、場所も時間も超えて今尚そこに存在するのです。

「想いを共有し、未来を見据えて幅広い視野で、豊かな心を後世に伝えられたら」という言葉もいただき、悠久の時空間に点在する人々の暮らし、祈りを感じながら醍醐寺金堂をあとにしました。最後になりましたが長時間の取材にご対応いただいた執行総務部長の仲田様、雨中境内を案内して下さった総務課の城戸様、誠に有り難うございました。次号も「時空を超えて出会う和歌山」続きます。

【会報誌きのくにH29年11月号掲載】

情報・出版委員会 南方一晃

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